2013年5月4日土曜日

リベラル・アーツとスペシャリスト

知人と酒を飲みに行くまでに少し時間があるので、ちょっと文筆でもしようかな。

たまたまネットをブラウジングしていたら、下記のような本を見つけた。


教養。よく、リベラル・アーツとか言われるもの。
最近はアベノミクスでわずかながらに好況感を呈してきているものの、景気の先行指標としてみる株価の上昇は2年くらい早い(過去は。今はどうかわかりません)のだが、長年の不況により、専門性を求められる記事や本などを目にする。

先日書評をあげた機械との競争も似たようなものだし、ワークシフトなどもそうだろう。
機械との競争を読了!

大学などの高等教育に場を移していくにつれて、徐々に専門性を高めて行く一方、学部生などは教養を求められるケースが多い。
それまでの小学校から高校までは多くて9教科という枠組みでの教育指導要綱なので、どうしても教養を育むには枠が足らないのだろう。
経済学を例にすれば、現実的な問題であるファイナンシャル・リテラシーの教育の場がないし、家庭科で一部指導されるくらいだ。

しかし、主体的に取り組むべき学徒において、過去の指導要綱から踏み出してリベラル・アーツを学んで行こうとする意味合いがなかなかわからない点もある。

どこでその重要性に気づくかといえば、卒業後に社会に出て、日々の現実問題に向き合った時に相違ないだろう。
今もなお、それは実感値として痛感する。

だけど、じゃあ、どういう方向性で身につければ良いのかという問題があり、時間とのトレードオフもあるので、全てにおいて精通することはできない。
特にスペシャリストとゼネラリストで語られることが多い、最近のビジネスパーソンだが、ゼネラリストは置いておいて、スペシャリストにリベラル・アーツは必要ないのか?という疑問がわく。

多くの場合、スペシャリストにおいては、広範な教養を持ち合わせていないケースが多いような気がする。そのランチェスター的な一極集中の専門性の研磨がスペシャルな価値を帯びるのもまた真であるから。

しかし、他の大学とは異なり、東京大学では駒場でリベラル・アーツを学ぶステップがあり、そこで要件を満たさなければスペシャリストへの道は志向できないのである。
最高学府たる所以でそうなのか、そもそもスペシャリストにも広い教養が必要なのかという思想を張り巡らせるのにいい材料だなと思った次第だ。

今、ちょうどこれから羽生さんの本を読もうと思っているのだが、人生の選択という意味でも、何を選択し、何を捨てるのか、こういった観点はやはり重要であるなぁと思うGWな今日このごろ。


では、飲みに行ってきます。

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